作品へのリスペクトと自己顕示
2025/01/05
バランスが大事です
札幌市南区真駒内柏丘にある音楽教室(ピアノ教室と声楽教室)、音楽工房G.M.P(ジーエムピー)の大楽勝美です。あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
もうだいぶ前ですが音楽大学の学生に「ベートーヴェンってどこの国の人が知ってるよね?」、「う〜ん•••ハンガリーかな!?」、「(^_^;)••••」ということがありました。「それじゃあOp.ってどういう意味?」、「えーっと、えーっと。。オクトパス(タコの意)」、「あっ•••そう。。😭」と、こうなると笑っちゃいますね。でもこういう人が熱情とかスラスラ弾いちゃうからある意味、恐ろしいわけです。
今は、学術的なことはわからないのが当然で、自分の勉強してる曲もYouTubeで聴けるというとてもお手軽な時代になつてしまい、「この曲、誰の演奏聴いた?」「わかりません」こんなふうです。ホントに恐ろしい時代になったと思いますが、それが当たり前の時代になってしまったのも現実なわけです。なぜそうなってしまったのか?
ある時から演奏する方向性を見失なってしまったからなのだと思います。それは「芸術」が「芸能」に変わってしまったからです。〈虎の威を借る狐〉のピアニストが増殖したことにその原因があるのではないでしょうか。曲の偉大さをただの道具くらいにしか理解していないピアニストが主流になってしまっているからなのかももしれません。
ピアニスティックなテクニックのアップした現代では、弾けない曲はないくらいにテクニックは進歩しました。何でも弾けちゃうんですね、楽に。そして、こうやって弾けばかっこいいとか聴いてる人が驚くとか、自己顕示欲の表現手段としてピアノを利用している自称ピアニストと呼ばれる人が増え続けていることに愕然とします。
百歩譲って自己表現を顕示するためにピアノを演奏する事が生きる道のようなピアニストでも、いわゆる作曲家たちの思いを理解し、伝統を尊重しての自己表現であれば、それはそれでまだいいと思いますが、何の知識の下支えもなく、自己顕示が主のピアニストは、残念ながらピアニストとは呼べないと思っています。悪いことにしかしながら、そういう刹那的でチャレンジング、そして視覚的な演奏に聴衆の方々は惹きつけられ易いのも事実です。
本当にいいピアニストは、ショパンやラフマニノフだけでなく、バッハやベートーヴェンも素晴らしく弾けるはずです。何百年の歴史を持つクラシックの歴史を理解して演奏できるピアニストは、聴き終わった時に心にずっしりとその演奏の重みが感動としていつまでも残されるものです。
作曲家へのリスペクト、そして音楽の歴史、作品を通しながら、バランスよく最高の自己表現者として演奏できることこそがピアニストの真骨頂なんだと思います。
リパッティのショパンやシューマン、バックハウスのベートーヴェン、ケンプのシューベルト、ゼルキンのブラームスの室内楽曲などをお聴きになると、その一端を垣間見ることができるかもしれません。そこには、コンクールなどの演奏とは全く別次元の、音楽の伝道者としての深い感動の演奏が味わえるかもしれませんよ。